ここは横須賀常光寺・・・


 
家の明かりが見える
菜の花畑が見える。
富士山が見える。
あるいは 小鳥の声が聞こえる。
小川のせせらぎが聞こえる
 
このような表現は欧米の言葉に訳すことはできません。
欧米にはこいういうもののとらえかたがないからです。
彼らは私が富士山を見たとか、
私が小鳥の声を聞いたとしか表現できません。
 
明らかに違うのは、見えるとか聞こえるという世界には
「私」という主語がないことです。
つまりそこには見る人の主観が入っていないということです。
 
ところが、私が見るとか聞くという立場にはその人の主観が入ります。
そのために、ものをありのままに見たり聞いたりすることはできません。
 
たとえば、花の名前や値段によって花を見るのは、
花のいのちをそのままに見るものではありません。
なぜなら、花はそんなことに関係なく咲いているからです。
 
「よくみれば なずな花咲く 垣根かな」
は、よく知られた芭蕉の句ですが、 
ここには芭蕉という人が表面に出てこないことが明らかです。
見る自己までも否定した芭蕉にはペンペン草の命が
百パーセント そのままに輝いて見えていたに違いありません。
 
仏教は人間のあらゆる主観的なエゴやはからいを離れて、
ありのままにものを見ることを教えているのです。
それはまた、 生死の自己をそのままに受け入れる道でもあります。
 
これは、徳永道雄先生が
「親鸞の自然思想」について話された法話の1コマです。
 

 

 

 


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